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斗南藩

斗南藩縁起

表高23万石を誇り、独自の伝統文化を華咲かせていた会津藩。尾張・紀伊・水戸の徳川御三家に次ぐ家柄で、葵の紋を許された奥羽の雄藩でした。黒船来航の前年にあたる嘉永5年(1852)、会津では藩主が代わり松平容保(かたもり)公が9代藩主を継ぎます。ペリー来航を契機に佐幕派と倒幕派が対立する中、文久2年(1862)、容保公は幕府の命を拝し、京都守護職に就任。会津藩士達を率いて攘夷運動が激化し無法地帯と化した京都で治安維持に努め、天皇はもとより一般庶民からも厚い信頼を受けていました。公武合体の第一線に立って職務をまっとうしたものの、慶応3年(1867)大政奉還、王政復古の大号令が発せられ、5年にわたる京都守護職を解任されます。しかし薩長両藩を主軸とした新政府は、自らの威令を浸透させるためにも、旧幕府を載く会津藩を潰滅させようと画策します。こうして、会津藩と新政府の戦いの火ぶたが切って落とされました。

この戊辰戦争に敗れた会津藩は、天皇および幕府に対する厚い忠誠の念にもかかわらず、「朝敵・逆賊」の汚名を着せられ廃藩となりました。崩壊を余儀なくされた松平家ではありましたが、幸か不幸か明治2年(1869)にわずか1年1ヶ月余りで家名再興を許されます。そこで、容保公の実子で当時生後5ヶ月の容大(かたはる)が後を継ぎ、斗南藩3万石を立藩。しかし、容大公は幼令であったため、山川浩が権大参事となり新藩の全責任を負い、新領地を治めることになりました。23万石からわずか3万石に削封された会津人たちは、こうして北奥の斗南藩領へと移住することになったのです。

斗南藩の歴史

北の地への移住

これは会津人たちの新たな血と涙と苦汁の日々のはじまりでした。
明治3年(1870年)春。淡い希望と深い悲壮感を胸に、移転が始まりました。海路をとった第一陣300人は、品川を出港。以後続々と蒸気船で北上が始まり、大平や野辺地、八戸などに入港、そこから入植地の村々へと移っていきました。一方陸路で移転した者たちは、悲惨な旅路であったと言います。宿泊に難色を示す旅籠も多く、また晩秋のことで、みぞれ交じりの寒さに死者も多数にのぼり、自殺行為に等しいものでした。
入植先での生活もまた、目を覆うほどきびしいものだったようです。一人一日三合の扶持米は保証されていましたが、国産米に南京米を混ぜた粗悪なものでした。でんぷんを作ったり、海草の根を加工したり、松の木の白皮を食べたり農家の残飯を漁ったりしたと言いますから飢餓地獄そのものだったようです。冬に入ると餓死や凍死、栄養失調などで死者が続出しました。

 

新時代を見据えた施政

およそ、2800戸、17300人余りが移住していますが、藩がまず手がけたのは山川浩を参事にすえ、5つの局を組織しての機構整備でした。また、旧藩時代の家禄や身分制を廃止、特筆すべきは全国に先駆けての廃刀令や戸籍の作成など、新しい時代をにらんだ施政を行っています。また、子弟教育も怠らず、藩庁が置かれた円通寺に斗南藩校日新館を開校したほか、領内各地に分校に当たる郷学校を開設しています。さらに、安渡と大平を合併した大湊を東北の長崎と位置づけ、将来日本の開港場とする壮大な構想も視野に入れていました。

 

新たな街づくり

街づくりにも着手し、田名部郊外の妙見平と呼ばれる丘陵地帯を開墾し、大平地区には松ヶ丘に30棟の長屋が建てられています。ただ、こうした入植地に移住できたのはほんの一握りで、ほとんどの藩士と家族は、扶持米を頼りに細々と暮らしていました。

 

産業への取り組み

本格的な農業対策は明治4年の春、雪解けを持って行われました。開墾と養蚕をすすめ、藍、茶、煙草、甘藷、蜜柑の類まで栽培させ、鋳物の鋳造、瓦、煉瓦の製造、漆器細工、製紙、機織、畳などの手工業も奨励しています。失敗に終わった作物、産物もありましたが、茶や甘藷は相当の出来栄えであったといわれています。先住の百姓でさえ手を焼くやせた土地での苦労は並大抵のものではなかったでしょう。

 

度重なる苦難

明治4年7月、廃藩置県が行われます。9月には斗南、七戸、八戸、黒石、館の五県が弘前県に併合されてしまい、翌年には政府の援助も打ち切られ、さらにどん底の生活を強いられることになります。そして、生活の破綻と時代の移り変わりに翻弄され、多くの藩士が斗南を去りました。明治6年には扶持米の打ち切りと転業資金の交付があったため藩士の転出に拍車がかかり、この地に残ったのはおよそ50戸に過ぎませんでした。

 

斗南藩士が残したもの

斗南藩の治世はわずか1年余りに過ぎませんでしたが、会津人の先見の明と一徹なまでの姿勢は、物心両面においてむつ市を始めとするこの地方に残した功績は実に大きなものがあります。

 

斗南の由来

一説には、中国の詩文の中にある「北斗以南皆帝州」からとったと言われています。北の辺境に流されてきたが、ここも天皇の国に変わりはなく、共に北斗七星を仰ぐ民であるというような意味ですが、望郷の想いといつかは南に帰りたいという願いが秘められていたのかも知れません。
もう一つの説は、「南斗六星」を語源とするものです。これは北斗七星に対してつけられた呼称であり、射手座の中央部を指します。この星座をよく見ると、射手が永久に放たれることのない矢を隣の蠍に向けているようです。もちろん蠍は薩長藩閥政府を、射手は会津を象徴しており、当時の会津人の心境がぴったりと重なり合います。

釜臥山と斗南藩

会津人は誰が言うでもなく、陸奥湾を猪苗代湖に、釜臥山を故郷会津の磐梯山に見立て、斗南磐梯とよんで墳墓の地を偲びました。明治3年に先発の藩士達がはじめて田名部に到着した際には、住民たちが軒先に提灯を吊し敬意を表して迎えたといわれ、感慨ひとしおであったことでしょう。

斗南藩のまちづくり

斗南藩が市街地を建設したのは、田名部川の流域に開けた平野をはさみ田名部の町に相対した妙見平と呼ばれる丘陵地帯でした。領内の開拓拠点となることを夢見たこの開墾適地は、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられました。市街地は一戸建て約30棟・二戸建て約80棟からなり、東西に大門を建築して門内の乗り打ちを禁止し、18ヶ所の堀井戸をつくりました。また、一番町から六番町まで大通りによって屋敷割りされ、1屋敷を百坪単位として土塀を巡らせて区画しました。

 

容大公と容保公

明治2年6月に、会津若松の御薬園で誕生した斗南藩主松平容大公は、幼くして斗南藩知事に任ぜられ、明治3年9月2日、籠におさまり、会津を出立しました。当初藩庁が置かれた五戸に仮寓し、田名部へ田名部へ藩庁を移したことに伴い、明治4年2月18日に田名部の地に入りました。藩庁の仮館となった円通寺では、業務を行い、徳玄寺を食事や遊興の場としていました。藩知事とはいえ、年端もゆかない幼君であり、実際の政務は山川権大参事をはじめとする家臣たちによるものでありましたが、陽春を迎える頃には家臣たちの差配により、移住者たちの激励、士気高揚のため、下北半島内の領内巡行に出向いています。

容保公は家名再興後も謹慎の身でしたが、明治4年3月14日には斗南藩へ預替えとなり、養子の喜徳とともに、東京から函館、佐井を経由し同年7月20日、円通寺に到着しました。円通寺では、幼い容大公が父である容保公を出迎え、多くの家臣たちが感涙にむせんだといいます。容保公と容大公にとっては、これが親子の発対面であったといわれ、二人は、喜徳とともに約1ヶ月の間、親子水入らずの日々を過ごしましたが、政府からの上京命令により、同年8月25日、斗南を後にしています。

この地を去るにあたり、容保公は、容大公の御名で布告(松平容大公書翰)を出しています。大意としては「このたび東京へ召喚され、皆と苦労を共にできないのは耐え難いが、公儀の思し召しでありやむを得ない。これまで幼齢でありながら重職を奉じおとがめも受けなかったことは、皆が苦難に耐え、奮励したおかげだと喜んでいる。この先も益々(天皇の)御趣意に遵って、身を削り、心を配して、(天皇の)限りない恩に報いることが私の望みである」という内容になっていますが、幕末から長年にわたる藩士の艱難辛苦の責を詫びる思いと、天皇を仰ぐ忠実な臣民であるとの訴えが読み取れます。

斗南藩パンフレット

こちらからご覧ください(PDF)

斗南藩ゆかりの地

斗南藩士上陸の地

秩父宮両殿下御成記念

円通寺

徳玄寺

旧藩士の墓

呑香稲荷神社

尻屋埼灯台
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