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菅江真澄の歩いた下北

菅江真澄とは

 菅江真澄。本名、白井秀雄。幼名、英二。宝暦4年(1754年)三河に生まれ、本草と国学を学んだが、師匠を亡くした30歳のとき、蝦夷地を目指して旅立った。4年の間「蝦夷が島」で過ごし、アイヌの人々の暮らしを見つめる。

 アイヌの習俗を、アイヌの人々の世界観に沿って書き取ったのは、この間の真澄の日記が初めてである。真澄の後の時代になっても、日本人という立場から解説する書物が多い中にあって、自分の解釈ではなく、その土地の人々の話をそのままに記述する真澄の立場には、際立ったものがあった。
 松前から津軽海峡を渡って下北半島の地を踏んだのは、寛政4年、1792年のことである。故郷の三河へ帰ろうとしていた真澄だが、この土地で3回の冬を越すことになる。そののち、真澄は津軽に6年あまり、秋田に29年暮らし、角館で亡くなった。
 生涯を旅の中で終えた。常に自らの足で歩き、自分の目で見て、人々の話に耳を傾けた。こうして雪国の風習を書き留めた真澄の日記は、後になって柳田國男に再発見され、「民俗学の祖」と呼ばれることになる。あらかじめなにがしかの観念を想定することなく、事実に沿って観察した真澄の記述は、後々その時代の民俗風習を知る上での貴重な資料となっている。菅江真澄のこの眼差しこそは、民俗学の出発点となった。真澄はついにふるさとの三河に帰ることはなかったが、蝦夷地から下北半島に向かっていた頃は、故郷を目指していたはずであった。みちのくに骨を埋めても良いと思うようになった初めのきっかけは、二年半にわたる下北半島の旅の中で与えられたようである。みちのくは、菅江真澄にとってのふるさとになった。
 真澄の歩いた下北を見つめなおすことで、私たちも自らの心のふるさとを再発見するだろう。

 

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